ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 – 本木昌造の用語解説 – [生]文政7(1824).6.9. 長崎[没]1875.9.3.日本の活版印刷技術の先駆者。嘉永1 (1848) 年オランダ船のもたらした活字と印刷機を購入して,流し込み活字製造を案出。安政2 (55) 年には長崎に設けられた活字判摺立所の御用係となり,兵学

本木の発音については、「もとぎ」または「もとき」の二説はあるが、日英和新条約(安政元年)の条文に、オランダ語翻訳に携わった本木昌造が「Motoki Shiozo」という自筆サインを書き込んでいることから、発音は「もとき」であった可能性が高い。

昌造は さらにこの時、文字のサイズである号、行間等に着目し本木活字を作り上げました(長崎県印刷工業組合および本木昌造顕彰会にて本木活字を後世に残すため復刻いたしました)。 (写真右)電胎法による日本初の活字の母型とその鋳型

もときしょうぞう【本木昌造】とは。意味や解説、類語。[1824~1875]江戸末期の日本の活版印刷の創始者。長崎の人。オランダ通詞の家業を継ぎ、航海術・製鉄術も習得。米国人ガンブルに金属活字の鋳造法を学び、のち活版所を開設した。 – goo国語辞書は29万語以上を収録。

本木昌造肖像写真「諏訪神社蔵」※写真は展示されません. 本木昌造は、1824年長崎市新大工町の北島三弥太の四男として生まれます。1834年、阿蘭陀通詞 本木昌左衛門久美の養子となり、23歳に小通詞並

本木昌造肖像写真「諏訪神社蔵」※写真は展示されません. 本木昌造は、1824年長崎市新大工町の北島三弥太の四男として生まれます。1834年、阿蘭陀通詞 本木昌左衛門久美の養子となり、23歳に小通詞並

本木昌造 本木昌造の概要 長崎公園の銅像通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。また、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産施設として私塾を開き、そこ

もときしょうぞう【本木昌造】とは。意味や解説、類語。[1824~1875]江戸末期の日本の活版印刷の創始者。長崎の人。オランダ通詞の家業を継ぎ、航海術・製鉄術も習得。米国人ガンブルに金属活字の鋳造法を学び、のち活版所を開設した。 – goo国語辞書は29万語以上を収録。

本木昌造はひとり近代印刷術の始祖にとどまらず、むしろ研究者であり教育者でもあった。本木昌造の設立にかかる諸施設とはむしろ「まなびの門」でもあったのである。 そうした本木昌造のあらたな側面を中枢にすえて本書をしるした。

本木昌造の墓碑は、大光寺後山の本木家墓域にあります。 昌造は1824年新大工町乙名北島家の4男として生まれ、12歳の時本木家の養子となり、稽古通詞と小通詞末席、小通詞を勤めました。

本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう) 文政7年(1824)~明治8年(1875) 江戸幕府の通詞、教育者 諱 永久 幼名 作之助または元吉 異表記に昌三、笑三、咲三 号 永久 活版印刷の祖と言われる 文政7年(1824)長崎新大工町の世話人

1950年頃の上海London Mission Pressが使っていたLong Primer活字 上海美華書館のWilliam Gambleが長崎の本木昌造に伝えた漢字活字群のうち、ロンドン伝道会(LMS)ルートで開発されて上海に渡った「一号=Double Pica」活字と「四号=Three-Line Diamond」活字。LMSの印刷物で「四号」漢字活字と同時に使われている

もとき【本木】[姓氏]とは。意味や解説、類語。姓氏の一。[補説]「本木」姓の人物本木庄左衛門 (もときしょうざえもん) 本木昌造 (もときしょうぞう) 本木良永 (もときよしなが) もときしょうざえもん【本木庄左衛門】[1767~1822]江戸後期のオランダ通詞。

日本における活版印刷の始祖・本木昌造は中国の上海で印刷所の館長をしていた活版技師、ウィリアム・ガンブルが日本を訪れた際に、電気メッキの技術を用いる「電胎法」という新しい母型製造法を教えてもらう機会を得ました。

事業主である本木昌造が、1875年(明治8年)9月3日、長崎で病死。大阪活版所設立のために五代友厚から融資を受けた負債を肩代わりして月賦弁済する。 1878年(明治11年)9月、本木昌造没後三年祭を

[PDF]

本木昌造船長として操縦する。 文久3年(1863年)40歳 4月チャールス号で大阪、紀州へ、7月ヴィクトリア号で小倉へ。 元治元年(1864年)41歳 11月ヴィクトリア号で下田を出港後八丈島に漂流。

本木昌造の墓碑は、大光寺後山の本木家墓域にある。昌造は文政7年(1824)新大工町乙名(おとな)北島家の4男として生まれ12歳の時本木家の養子となり、稽古(けいこ)通詞と小(こ)通詞末席(21歳)、小通詞(30歳)を勤めている。

May 25, 2010 · 本木昌造(もとき・しょうぞう)・長崎の偉人 長崎市新大工町生まれ。 文政7年(1824)6月9日-明治8年(1875)9月3日 51歳 江戸幕府の通詞、教育者で日本活版製造の始祖。 母の実家、幕府オランダ通詞の本木家を継ぎ、その職業柄、身近に西洋近代のすぐれた技術と学問に

東京都文京区水道にある印刷博物館に行きました。 2月13日までの「活字文明開化ー本木昌造が築いた近代」展を見るためです。 鎖国していた江戸時代、日本で唯一世 [続きを読む]

本木昌造は難しい。たかだか百数十年前に生きた人間であるのに、すでに数多くの謎に包まれている。 その謎は、昌造の最初の伝記を書いた福地源一郎の筆の滑りに由来したものもあるであろうし、昌造の複雑で屈折した生涯(と私は思っている)から紡ぎ出されたものでもあるかも知れない。

本木昌造・平野富二詳伝 : 鋳造活字、印刷、製鉄、造船、航海、土木、海運事業始祖 タイトルよみ (titleTranscription) モトキ ショウゾウ ヒラノ トミジ ショウデン : チュウゾウ カツジ インサツ セイテツ ゾウセン コウカイ ドボク カイウン ジギョウ シソ

2013年に開催された「活字文明開化 本木昌造が築いた近代」展の図録。日本における活版印刷の先駆者として知られる本木昌造の功績により、日本がいかに近代化を発展させたのかを解説。人物、技術、情報といったさまざまな視点から活字文化の重要性に迫る。

日本における近代印刷は本木昌造で始まった. 江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。

もとき【本木】[姓氏]とは。意味や解説、類語。姓氏の一。[補説]「本木」姓の人物本木庄左衛門 (もときしょうざえもん) 本木昌造 (もときしょうぞう) 本木良永 (もときよしなが) もときしょうざえもん【本木庄左衛門】[1767~1822]江戸後期のオランダ通詞。

日本における活版印刷の始祖・本木昌造は中国の上海で印刷所の館長をしていた活版技師、ウィリアム・ガンブルが日本を訪れた際に、電気メッキの技術を用いる「電胎法」という新しい母型製造法を教えてもらう機会を得ました。

本木昌造 参考文献 曲田成『日本活版製造始祖故本木昌造先生小傳』東京築地活版製造所、1894年。川田久長『活版印刷史』印刷学会出版部、1949年。小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」『本と活字の歴史事典』印刷

本木昌造の生誕日と没日から享年や周年記念を算出したり、同年代の人物、歴史や出来事を年ごとにご紹介しています。

本木昌造. 本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう(未詳、後段参照)、文政7年6月9日(1824年 7月5日) – 1875年 9月3日)は江戸幕府の通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久、幼名作之助または元吉。

May 25, 2010 · 本木昌造(もとき・しょうぞう)・長崎の偉人 長崎市新大工町生まれ。 文政7年(1824)6月9日-明治8年(1875)9月3日 51歳 江戸幕府の通詞、教育者で日本活版製造の始祖。 母の実家、幕府オランダ通詞の本木家を継ぎ、その職業柄、身近に西洋近代のすぐれた技術と学問に

本木昌造の相関図。相関図でつながっている人には、平野富二、三谷幸吉、長崎奉行、大鳥圭介、上野彦馬、小宮山博史、渋沢栄一、平野義太郎、片塩二朗、川田小一郎、大隈重信、土光敏夫、徳永直、川田久、島屋政一、中野重治などの方がいます。

本木昌造は難しい。たかだか百数十年前に生きた人間であるのに、すでに数多くの謎に包まれている。 その謎は、昌造の最初の伝記を書いた福地源一郎の筆の滑りに由来したものもあるであろうし、昌造の複雑で屈折した生涯(と私は思っている)から紡ぎ出されたものでもあるかも知れない。

9月は印刷の月。活版印刷のパイオニアとされる、本木昌造の命日にちなむ。生誕地の長崎では今年も活版文化に触れる催しが開かれ、弟子の再

その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げ

Amazonで島屋 政一の本木昌造伝。アマゾンならポイント還元本が多数。島屋 政一作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また本木昌造伝もアマゾン配送商品なら通常配送無料。

近代活版印刷発祥の地”長崎”で近代印刷の礎を築いた”本木昌造”の熱い精神を受け継ぎ、これまで県内トップレベルの「印刷技術」を軸とした高い技術力をもとに、 約半世紀以上もの間地域に密着した企業として成長を続けてきました。